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出版社を辞めて福岡のベンチャーにジョインしたら半年で東京にUターンした話

 とんちんです。

 昨年の9月にZINEに入社してからはや5カ月。今回は自分のことを書いてみようと思います。インタビューしたり誰かのことを書いたりするのは慣れていますが、自分のことを掘り下げて書くのは初めてです。

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「とんちん」はZINEのニックネーム制度から生まれた。私がラーメンが好きだから、という理由で名付け親のかたが好きなラーメンの名前をつけられることに。いまでは定着しました


1社目:月給20万円、社員数3人の小さな出版社に就職

 私にはもともと器用さも愛嬌もない。「100社に”御社が第一志望です!”なんて言えないなあ」と思っていた。新卒カードをためらいなくポイ捨て。確実に編集者になるため、小さめの出版社や編集プロダクションを狙うことにした。編集職に就くためには、とりあえず潜り込むのが正攻法なのだ。

 とにかくペンで食べれるようになりたかった。ただ就活意識は低かったので受けた企業は5社ほど。内定をもらった2社のうち、正社員・月給20万円で迎え入れてくれる株式会社ビジネスチャンスでお世話になることに。新規事業や起業、ベンチャー情報などを扱う隔月刊誌『ビジネスチャンス』を発行する、社員数3人のちいさな出版社だった。

株式会社ビジネスチャンスで編集者のキャリアがはじまった

 よく「ビジネスチャンスwwww」とか「なにその社名www」とばかにされるが、それでもようやく入った出版社。うれしかった。私は運良く出版業界に潜り込むことに成功したのだった。

 それまで執筆経歴はなかったが「旅好きで行動力がありそうだから」という理由で採用されたらしい。なんだそれ。

インド人におっぱいを揉まれる

 旅好きで行動力がありそうだから採用!——なんとも漠然とした理由だ。大学時代、私は一人旅に人生を捧げていた。

 そもそも一人旅をはじめるきっかけになったのが、高2病のときに買った詩集『メメント・モリ』。本が私の人生を決めた。ガンジス川の写真を目にして「ホンモノを見ないと死ねない」と思ったからだ。

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2009年のインド・バラナシ。ガンジス川を見たが死ぬのはまだ早いと思った

 女一人、単身でインドへ飛んだ。20歳にして初の一人旅、ノープランで14日間。道行くインド人にぼったくりパックツアーを売りつけられそうになったりおっぱいを揉まれたりした。

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おっぱいを揉まれた時にはさすがに怒った。日本語でキレると本気で怒ってると思われることを知った

 インド4日目にもなると、
「このインド人はどうやって私を騙そうとするのかな?」
「2時間待っても電車が来ない〜むかつく!でもおもしろい!!」
と思えるくらいに旅を楽しんでいた。

 すっかりバックパック旅の味をしめて、在学中にバルカン半島(ロシアほか東欧、トルコ)やミャンマーにも行った。

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ミャンマー・インレー湖上にて。写真に興味を持ちはじめたのもこのころ

 学生のうちに20カ国近く訪れたのだが、おっぱいを揉まれたのはインドだけだった。インドに行かれる女性は気をつけてほしい。

「パラダイス」と呼ばれた学部を5年半かけて卒業

 旅行資金はバイトで稼いだ。カラオケ夜勤のアルバイトに燃えた結果、明治大学の中でも屈指の楽勝学部(単位取得がラクで、学内では「パラダイス政経」と呼ばれる)を留年してしまう。しかも2回も! だが1.5年分の学費以上の気づきがあった。

  1. 自分は他の人より”おもしろい”の沸点が低い。未知の情報を知ることへの欲求が強い
  2. 道中記として書いていたブログが思いのほか好評だった。状況や気持ちを文章で表現する能力はあるのではないか?

 大学には5年半も通ってしまったが、自分にとって苦にならない分野があると気づけたのは大きな収穫だった。バックパックを背負ってふらふら世界を歩いていたら、自分の生きる道が見つかった。

企画して取材して記事にする、一連の流れを体験

 ——月給20万円、社員数3人の小さな出版社に就職した話であった。

 株式会社ビジネスチャンスでは起業・新規事業関連の雑誌編集部に配属となり、編集記者として働くことになった。マナー講座や研修といった教育制度はなかった。しかし記事をつくることについてはじっくりたたき込んでいただき、入社から1週間後には1人でインタビューに出向くまでになった。「気になる」と思った人に会いに行っていたら1年半で150人超の社長にインタビューし、300人以上の社長と名刺交換をさせていただいていた。

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マンション1室のベンチャーから大手FC本部まで、どんな会社にも行った

 取材から戻ったら、1時間ほどのインタビューを800字ほどの文字数に落とし込んだ。上げた原稿には編集長のアカがたくさん入る。てにをはや言い回しだけでなく、言いたいことは伝わってくるか?この記事のおもしろいポイントはなにか?などを細かく指摘してもらった。今でも一文一意・伝えたいことをはっきりさせる、などたくさんの教えが生きている。編集とライティングの基本が身についたといえるだろう。

 締め切り前にはゲラの回し読みをしたり、雑誌の部数決定のために取次に足を運んだりもした。普通は取次営業と呼ばれる方が受け持つような仕事なので貴重な経験だった。取次倒産のニュースを目にするたびに、やたらエラソーにしていた受付の人たちが思い出される。彼らは今後どうやってご飯を食べていくんだろうか。

事業モデルの行き詰まりを直に感じる

 私が勤めていた2013年当時、マイナーな業界誌『ビジネスチャンス』は出版不況のあおりをモロに受けていた。会社の収入源は雑誌上の広告枠販売、タイアップ記事制作のみという自転車操業。雑誌を刷っても売れない、でも刷らないと広告枠を作れないという負の循環から抜け出せずにいた。給与の振り込みが遅れる月もあったほどだ。こんな環境だからか、社長は「1年後にはつぶれるかもねー」と笑いながら話していた。本人は冗談のつもりだったのかもしれない。だが従業員のモチベーションは下がる一方。赤字経営なのが分かっている以上、月給を3万円上げてくれたところで手放しに喜べなかった。

会社に伝わる昭和の風習

 この会社にはいろいろと謎の風習があった。
 朝9時に出社してオーナーに必ずあいさつをしなければならない。大声であいさつしないと怒鳴られる。9時30分までにはオフィスを出ないと「情報は足で稼げ」「自分で情報を集めない奴はマスコミにいらん」とオーナーの怒号が飛ぶ。すぐ近くの部署では「こんな原稿が出せるわけないだろ、ふざけんな!」と新人に強くあたる上司が幅を利かせていたため、2カ月に1人のペースで人がいなくなっていった。

PCのスペックは低かった

 こういた保守的な傾向はウェブ戦略でも同様だった。
 スペックがクソなPC(今から3年前なのにCPUはceleron、32bitのWindows7、RAMは2GB。原稿書くたびに落ちそうだった)を支給されたときからイヤな予感はしていたが、ITリテラシーが低すぎるのだ。オフィス内にWi-Fiは飛んでいないし、原稿はDropboxなどのクラウドで共有しましょうと提言したら「クラウド?何それ」と首をかしげられた。

 コーポレートサイトがあるのにHTMLを書ける人間は社内に誰一人としていない。冗談かと思われるかもしれないが約3年前、2013年のことである。
 コーポレートサイトの低コストリニューアルの企画書をつくり提案しても「じゃあ誰がお金出すの?」と一蹴されてしまった。自分の企画書が未熟だったことは否めないが、誰からも反応がもらえないのはつらかった。

昭和時代に取り残されるのはごめんだ

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21世紀にこんな広告を載せてしまう雑誌

 これからはウェブで情報を発信する時代。今の考え方のままでは会社が生き残っていける未来図が見えないし、自分も古い世界に取り残されそうだと思った。新しい技術を臆面なく取り入れるスタートアップの世界を取材しながらも、当時の自分がいたのは古い文化が色濃く残る会社。このままでは化石になってしまう。入社して約1年半の春うららかな朝、限界を迎えた。出社できなくなってしまったのだ。

2社目:福岡のベンチャーで力不足を痛感

 わずかな失業保険と貯金を食いつぶしながらふらふらしていた冬の日、ふとした拍子に以前から飲み友達だった社長と会うことになった。軽い気持ちで会いに行った。社長から「うちの会社でリリースするメディアの編集、やってみない?」と突然のオファーを受けた。

 職場が福岡になるにもかかわらず、おもしろそうだからと首を縦にふった。福岡なんて出張で一度訪れたきりの場所なのに。入社後は「編集ができるから」という理由でリリース予定のオウンドメディア担当者を任じられた。

 そんな熱烈な社長が率いるのは、自社製品も社員も愛する「LOVE&PIECE」がビジョンの会社だった。私の能力不足のために半年で福岡を去ることになるのだが。

飲み友達とは

 出版社時代に、ひたすらおもしろそうなスタートアップを探していた私。広報担当者をもたない会社も多く、インタビュー取材は社長と1対1で行った。お互い緊張がほぐれると、世間話に花を咲かせるうちに「うちで働けばいいじゃない!」とダイレクトリクルーティングされることもある。声をかけてくれた社長もその一人だった。

スピード感の早さや「エディター」としての自分に満足感を得る

 新しく入社したのは、事業の軸が決まっていないベンチャーだった。昨日の会議の内容が今日の朝に変わるのはままあること。意志決定スピードが速くて爽快。常に改善を意識する人間が集まっていた。そんな環境でいちから企画を立て、記事のフォーマットを作るなど、自分で仕事をつくりだしていく感覚はたまらなかった。自作のフォーマットにのっとった記事が増えるたびに嬉しくこそばゆい気持ちにもなった。

 あとこれはベンチャーならよくあることなのだが、メンバーの各人にプロとしての明確な役割を求められる。そんな環境下で自分がいっぱしのエディターとして迎え入れられたことが嬉しかった。会社でいちばん編集やライティングに秀でた人間として扱われるのは悪い気がしなかった。

編集者をクビになる

 反面、責任の重さを痛感することになる。
 ベンチャーでは「言われてから動く」は遅すぎることが多い。仕事の進め方が分からないと私がアタフタしているうちに、力不足だからだと編集職をクビになった。入社1カ月で広報に、さらに2カ月後にはライター兼総務へとコンバートされた。

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短期でポジションが変わるメンバーは少なくなかった

 これまで述べたとおり、私にあるのは編集経験だけ。広報も総務も「やる人がいないから」とあてがわれたポジションだった。会社が人・カネ・時間の制約を抱えていて、最適な部分に最適な人員配置をしたいのも理解できる。資金調達をし、短期間でのEXITを目標にしているベンチャーならなおさらだ。

何者にもなれない悲しさ

 総務としてトイレットペーパーを買いに行ったり、来客にお茶を出したりしながら、私はしずかに焦りを感じていた。私大を留年し、ただでさえ同期よりも社会人経験が短い自分。この会社の意向に従ったままでは編集者・ライターはおろか何者にもなれないのではないかという不安をぬぐいきれなかった。

上司はほんとうに愛をもって、私たちに接してくれていたのだろうか?
——私はひとり、疑心暗鬼になってしまった。

コンテンツで大事なのは量?それとも質?

 総務の仕事と平行して記事のライティングも手がけた。KPIは記事数。いかに安く、多くの数の記事を作るかが評価される環境で1日2記事を作っていた。パソコンの前から動かずに、だ。

 縁もゆかりもないのはもちろん、行ったことがない場所をさも旅したかのように旅行記事を書いた。ねつ造といってさしつかえないだろう。検索すれば、誰でも知れる情報でつくられた記事。こんな記事は誰にでも作れる。熱が入らなかった。仕事とはいえ、一人の旅好きとしてどうしても許せなかった。その土地のにおいや、路地裏の空気……行かなきゃ分からないことがたくさんあるのに。旅をしたいという人に対する愛はどこへ行ってしまったんだろう?

 我慢ができなくなった私は、

「記事を作る以上、取材をするべきだ。量よりも質だ」

と社長に何度も直談判したがうまく伝わらなかった。それどころか「文章を書くのが難しいなら、写真を多くすればええやん」とまで言われてしまった。そういうことじゃないのに。

文章のチカラで説得させられない自分、グウの音も出ないほどすばらしい記事を書けない自分がもどかしかった。

新鮮なサバの刺身より、情報を

 昔からいろんなものを知りたい・知識を増やしたい性分だ。もはや病的とも言える知識欲を慰めるために、福岡で開かれているWeb関係の勉強会にたびたび顔を出した。東京では毎日のように開催される勉強会や交流会も、福岡ではまだまだ少ない。人口の差もあるだろうが、同じテーマで2回も出席すれば参加者は顔見知りばかりになってしまう。それに「会いたい」人たちの多くは東京にいる。福岡の著名人は東京で会える機会もあるが、東京の著名人は福岡ではなかなかお目にかかれない。
 ”コンパクトシティ”も便利な反面、物足りないなあと思っていた。山手線沿線には天神と同規模の街はいくつもある。それに田舎に飽き飽きしていて都会に出た自分からしたら、福岡のメリットのひとつ「海や山にすぐアクセスできる」も心に響かなかった。

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福岡のうどんは麺がゆるゆるだが、だしはおいしかった

 百道浜と室見川が流れ、椎名林檎にとって「正しい街」として憧憬のなかにあった福岡。私にとってそれは正しい街ではなかった。

 玄界灘でとれる新鮮なサバの刺身より、情報を食べて生きていきたかった。

3社目:出版ベンチャー株式会社ZINEへ

 今は福岡から東京に戻り、オウンドメディアの運営をしながら、ほかにもWeb記事を書いたり編集したりしています。

ZINEでコンテンツ制作に没頭できています

 同業他社は数あれど、一番ついていきたいと思える人が編集長だった。コンテンツ制作に対する考え方、記事を作り込む姿勢に惚れ込んで入社。創業から1年足らずのできたてホヤホヤベンチャーにも関わらず、編集者として育ててくれる環境があるのはとてもありがたいことだ。
 とはいえ一日でも早く会社、ひいてはクライアントに貢献できるプロになりたい。

いろんな人・モノ・場所にアクセスできる喜び

 東京に戻ってからはメディア勉強会やイベント参加にとどまらず、前々から気になっていたコーヒーミーティングをやってみた。仕事関係の話が8割以上だが、カウンセラー志望のサラリーマンやメディア運営を考える大学生など、普段会えない人とお茶することができた。
 自分からミーティングを申請することはなかったが、自分に興味を持ってくれる人がいたり、彼らと実際に会えたりすることに喜びを感じている。こうした人々に出会えたのも、東京にいるからだろう。

これから編集者としてやりたいこと

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心にドーン!って刺さるコンテンツをつくる

1年以内:プロのウェブ編集者にアップデートしたい

 てにをは文章を整えるだけでは編集者とよべない。ライターの持つ強みや色を引き出せてこそ編集者だ。
ウェブならではの経験も積んでいこうと思う。Webメディア運営に関する技術、数値の読み方・生かし方など学びたい、学ばなければいけないことが山積みだ。

2年以内:専門分野を持ちたい

 仕事上HTMLを触ることが多いのだが、正しく記述すれば思った通りに表示させられるということが、当たり前のことだけれどたまらなくおもしろい。まずはHTML、ついでCSSやJavaScriptも使いこなせるように勉強して静的なページを組めるようになりたい。のちにプログラムも組めるようになれれば御の字。
 テクノロジー以外では自分を編集・ライティングの道に導いてくれた「旅」を強みにするのもいいなあと思っている。

5年以内:ライターを育てたい

 熱量あるライターさんに会って、その人の良さや輝ける場所を提供したい。いままで数百本の原稿を見て感じたのは、文章に伝えたい!という強い思いを乗せられるのは書き手すなわちライターだけだということ。
 編集者は、ライターさんからあがってくる原稿のはじめての読者だ。文章からみなぎる熱量を殺さず、それでいてもっと多くの人に伝わるような編集をしたい。あくまで主役はライターさんやカメラマンさん、取材させてくださる方々。自分はちょっと口うるさくて時々優しい、おせっかいおばさんになれればいい。

 いまは誰でも情報が発信できる時代。だからこそ人の心をドキドキさせるようなコンテンツを生み出していきたい。と、東京のまんなかで今日も思う。

Webメディアをつくる編集者を募集しています

 株式会社ZINEでは編集者を募集中。出版社でくすぶっているよりもずっと刺激的ですし、事業会社でヒイヒイ言わなくてもいい。じっくり記事制作ができる貴重な環境です。

「ちょっとくらいこじらせてる人のほうが面白いコンテンツを作る」って編集長が言ってました。